不登校≠問題 不登校は問題じゃない
不登校についての私の考えです。過去、色んな人の話を聴いて(自分から聴いた話、聞くつもりもないのにつかまって聞かされた事も含む)、本を読んで、サイトを開いて読んで、「うんうん確かにそうだな」と思えたことは1~2%だったなぁと思った経験から、1~2%の人が共感すれば良いと思って書きます。
すでに、この言い方がキツイと感じる方もいるかもしれませんが、そう思うのだから、あやふやに受け取られたくないから、キチンと書きたい。私と自然とのかかわりも、この経験(子供が学校へ行かなかった事自体は問題ではない。結局は私自身の問題。また、問題を抱えた私に集まる人の様子を見て感じた事。)は少なからず影響しています。
例えば、今、アロマテラピーやフィトテラピーの勉強をすすめていくと、あたりまえだけど習っていない事が沢山出てくる。本やサイトに出て来ない事を体験することもある。「え?」と言う事が起きる。そして、データは9割は合っているけど「起きるわけない事が起きることもある」事を知る。それを知っていると、日常で何か起きてもあまり揺さぶられなくなる。ああ、そういうこともあるよね、と。

調べると分かる。例えば全日制高校の退学者は、2~3%。(ざっくりですが)。自分の友達が100人いても同じ立場の人は2人。多くて3人。不登校はもう少し多いかもしれない。少数を問題という括りにするのはどうなんだ?と私は思う。
目次
「不登校問題」という言葉は便利
そろそろ春休み。そして新学期。この季節になるとテレビのタイトルで目に付くようになる「不登校問題」。「不登校問題」と、ひとくくりの言葉として打ち込むだけで個人的にイラっとする(笑)そしてちょっと辛くなる。「問題」なのか、と。
不登校=部屋から出られない、というイメージ。確かに多くはそうなのかもしれない。じゃぁ、部屋から出て、家からも出るけど、学校行かないのは?
不登校の定義があるのは仕方ない。だけど大人が(学校が)管理上の言葉として定義づけていて、それに当てはめて「この子は不登校」「この子はまだ、不登校じゃない」と括(くく)るのはやっぱり違和感がある。
う~ん「問題」かぁ。他の呼び方何かないかね。
不登校=登校にあらず、だけど「問題」なぁ。なんか「問題」と言われたらなんだか落ち込むじゃないか。頑張ろうと本人は思うだろうし、特に親は「問題です」と言われたらツラいのよ→ここは、親の乗り越えポイントで、自分のツラさを解決するために子供を登校させるのは、それこそ問題。
社会の呼びかけ「行かなくてもいいんだよ」
問題と言っておきながら、こんな呼びかけがあるよね。
行きたくなければ行かなくていいよとか、身近な人に相談を。
呼びかけ自体は何も悪くない。でも、どうすりゃいいんだ。頑張れなのか、安めなのか・・・・。そして相談に来ない理由も考えて欲しい。
私は「聞くしかできないけど、良かったら話して」というママ友の顔を思い出す。ああ、私は可哀そうな人なんだ。そういう気持ちにさせる聞き方があるのを、貴女は知っているか?とぶつけたくなる。怒りとみじめさと、悲しさで震えて倒れそうになる。間違いなくそれは顔色、顔つき、声、指先に出る。
気持ちを抑えて、じゃあねと何とか別れる。なのにさらにメールが来て「身体に気を付けてね、いつでも連絡してね、早くいい方向に行くことを祈っているからね」。もういいよ、黙れ黙れ、と思いながら「今日はありがとうね」と何とか返す。
さあ、これ、読んでいる人は客観的に見て、どう思う??
私は今、色んな人と話をする時に、その時の事を基準に考える。答えは誰もくれない。だってその正解を持っているのは目の前の人だけだから。これを読んだ人がどんなに「いやいや高嶋さんはいつも熱心に聴いてくれるよ」と言われても、その人じゃない限り、それは正解じゃないんだよ。
そんな言葉すら、人によっては黙れ黙れと相手に思う時もある。
私はお客様に必要以上に連絡を取らない。サンキューメールも送らない、生徒さんとの連絡LINE(その日のまとめ、質問の答え、写真、次回のレッスン日の確認など)も、既読が付くから必要がなければ返事をしなくてもいい。と、伝えている。
己の無力を自覚しておく
関係のない無責任な大人(一部のママ友と言っておこう)は、「不登校」と括られた人にはなぜか関心がある。本当に心配してくれる人もいるだろうが(いたけど)、こちらからすれば、そんなことは実はどうでもいい。ありがたいけど他人はどんなに心配しても助ける事は出来ないと自覚をしておいて欲しい。親ですら、何も出来ないのだから、ただの興味で来た人に何かできる事なんて何もない。
何かしてあげたいと思って近寄るのであれば「己の無力を自覚して」「罵られる事も覚悟して」「八つ当たりされるのが役目」くらいの気持ちで近寄るべきだ。
私のサロンにも「不登校の子がいて・・・」という親御さんが来られる。真剣に話を聴くけれど「何もしてあげられない」といつも自分の無力を思う。
そして私に出来るのはこのお母さんが「どうしてこんなに不安か」という客観的な話と「ご飯を食べて、眠れる体」を、どうやって戻すかというレッスンしか出来ない。だからそれだけは一生懸命する。その為に色んな本を読んで勉強する、それしか出来ないから。
お母さんは答えと解決方法を求めてくるのだろうけど、残念ながら既にそこが違うと伝える。ここには答えも、解決方法もない。なぜなら・・・と伝える。
他人に対して、自分の無力を知っている事は大事だよ。これは親でも、嫁でも、娘でも、友人でも、そうだと思う。特に子供が深く悩んでいる時、親はただ、ご飯を作るしか出来なくて・・・・、それでいいんだと思う。だって生きる根本だもの。
もしご飯を作ってあげられる距離に、相手がいない時は、自分がしっかり美味しいご飯を食べる。そんなことと思わないでね。これ大事よ?いつでも駆け付けられる体、心、そして戻れる場所と、湯気のあるご飯を作れる気持ちと身体を持って置く事。一番大事。そしてそれだけでいいと思っている。逆の立場で考えてみて?そう思わないか?この人に頼っていいという土台を持った人に寄りかかろうと思うでしょう?
小さな目先の問題を、ちょこまか小手先で解決するような提案をする大人はダメだと思う。その奥の問題がありそうかどうか?を深く考えて行動した経験したことがある人がいい。(理想論は要らない。経験値がある人がいい。)
問題=選択肢=選べる幅が広い
「問題」ならみんなが本気で、本音で、考えると早く動けるようになる。皆で検討する。環境、空間を整えるわけだ。
学校に行くのがイヤな理由はすごく単純で、選択肢が増えて困っている状態を指しているだけなんだと思うよ。答えが増えてしまって困ったと。成長したんだよね、いろんな人を観て考えて困ったんだ。選ぶ方向としてはちょっと考えただけでも3つ浮かぶんだが。
①学校以外の学び方を探す→学校をやめる。学びの場を違う場所に変える。→大人(親)がどう協力できるかを伝える。
➁それでもなんとかして学校へいきたい→行きたいけど何か問題があり、それを排除するか、折り合いをつけるのか、何にせよ自分も方法を考えて頑張る事が必要。→大人が出来る環境づくりは何か。本人が出来る事は何か。(他者に危害を加えられている場合はまた別の問題。問題を抱えた人がもう一人増えているから。)
③今は何もしないことにする→相当弱っていて、身体、心、動けないのでまずは回復する。→大人が出来るのは、人間が生きるために必要な環境を整える事。

どちらも甘えない、誘導しない
大人(先生、親、)
→自分の理想や希望を押し付けて、自分の都合のいい着地点に、子供を誘導しようとしない。するとおかしなことになる。色んな思い(私欲)で意見を言い、行動するので、肝心の子供はこんがらがってぐちゃぐちゃになる。大人の都合のいい思いはバレるし、さらなる疑念を抱かせる。ただし本気の思いは伝わる。良い事を言おうとしない、誘導しない。伝えた提案や言葉が間違えだと思ったら、すぐに謝って訂正する。
子供
→
疑念は、大人にぶつけて良い。困った事、嫌な事は全部正直に言う。怒っても良い、泣いてもいい。大人が変に慰めたり、それを捻じ曲げて受け取ったりしたら、指摘していい。正直にぶつけることで、「自分に真剣に向き合ってくれそうな大人は誰なのか」を見分けたらいい。これは大人になっても持っておくと良いと思う。正直に話す癖をつけると嘘をつかなくてよくなるからね。
ただし忘れちゃいけないのは、あと数年で大人という事。今の状況は「自分は、その途中に居る」「すぐにそっち(大人)サイドになる」事も忘れない。大人になる為に必要なステップを踏んでいるという事を客観視する。残念ながら誰かが自分の都合に合わせて問題を全部解決してくれることは無い。大人に期待し、大人を便利に誘導する方法を考えるのは将来の役に立たない。自分が居心地のいい場所は、自分で作るしかない事を忘れない。これは大人になってもそう。
ここまでは自分で頑張るしかない、ここからは大人しかできないのでやって欲しい、これを言葉に出して言ってみる。親が分からなければ、祖父母へ。祖父母がわからなければ・・・・う~んどこだろうか。先生が分からなければ・・・、う~ん、これもどこだろう。信頼できる大人は、いるのだろうか。居てくれ、そういう大人が増えて欲しい。

私が出来る事
ここまで偉そうに言えるのは、自分がたくさんの失敗をして考えて来たから。
どうしてこうなってしまったのだろう、と起き上がれなくなったこともあったから。
もちろん、そんなこと私に比べたら・・・・と、言う人もいるだろうし実際もっと「大変」という人は居るだろう。
それでも、無力を自覚しつつも私が出来る事は、出来ないながらも私で良かったらこれが出来ますと発信するしかないからだ。
あの時、話を聴いてくれた友人、スクールカウンセラーの臨床心理士さん、先生、旦那の親、に恩返しをするために。恩を巡らせたい。そして「親子の縁をしばらく切りたい」「自分の親、つまりあなた達との親子の関係が昔からしんどい」とぶつけた自分の親への恩返しの為に。恩は親に返さなくていい、と子供に言った。(生まれた時点でそ親孝行が済んでしまっている思っているから。)
<私が出来る事>
・話を聴く→今の状況を客観視するのに役立つと思う。お子さま本人の話しでも、親御さんの話しでも、お孫さんの話しでも、何でも聴きます。
・今出来そうなことを一緒に考える→何なら出来るのかは人それぞれなので、今何が出来るのか、出来ないのか、整理する。
・アロマテラピーの講座→恒常性、ホリスティックな考え方、自然療法、そこから、健康や心、身体を安定させる方法を伝える。
・トリートメント→自分の身体の客観視と、人に必要なのは優しい手と優しいい気持ち、休息場所をお伝えする。
・リクエストに応じて
料金と連絡方法
ここにきてお金取るんかい!
と、言われそうですが、これが私の本気です。
私が、ツラくなって立ち上がる時、色々な事を学びました。安くないお金を払っていいものを得ました。料金と内容が合わない、合うもあったけど、それも感覚でしかないけれど、皆さん本気で教えて下さいました。こちらも料金を払った分、休まずに行き、真剣に学べました。質問もたくさんして先生って何だろうと考えました。
そして、無料の方が信用が出来ない場所や人が多いと感じました。
自分も過去に無料で、延々話を聴いていた事もあります。夜中のLINEに応えていたこともありました。でも、無責任さと、まやかしの安心感を与えているだけで、無料という事で甘えも出るし、お互いが疲弊して結局アカンやないか、と結論が出ました。
世の中には料金がかからない相談場所もあれば、病院、カウンセラー、色々あります。
公的機関でも話を聴いてくれます。(実際利用して、私は一瞬ですが、心が救われました。)
そして私は、仕事としてお伺いしすることにしています。
<料金>
金額:1回22,000円(リクエスト講座、お仕事依頼、傾聴、共通の値段)
時間:3時間くらい(メール等で事前のやり取りは無料、時間無制限です)
Googleのお申込みフォームにジャンプします。
どんな話をしたいのか、対面かZOOMか、講座を受講したいのか、など何でもお気軽にご相談ください。
アロマテラピーの講座自体も、そういう観点でおこなっています。自然を知る、ことも、人生を生きる事も同じ気持ちで向き合っています。