近しい人との価値感の違い、どう考える?
目次
質問大歓迎です
スクールに来る生徒さんや時にトリートメントのお客様から、色んな質問を頂きます。
アロマと関係ないのですが・・・と、前置きをして質問をくださるのですが、起きる全ての事は、どれも繋がっていると思っているので「大事」と思う事は結構真剣に考えてお答えします。
「香りでリフレッシュ」と言っても「気分転換」というレベルを超える事だってあり、辛い状況、ショックな事、怒り、悲しみ、そんな時は嗅覚すら利かなくなることもあります。「味が分からない」「砂をかむような」という状況。
私もそういう経験がありました。自分から話すようなことではないので語りませんが、それでも聞かれれば、私のモノの見方が参考になるのであれば、お話をさせて頂いています。
「ホリスティックに物事を見る」
「恒常性(ホメオスタシス)を意識する」
「バランスが悪いと思ったら、なるべく早い段階で対処する」
「余力がある状態で、日々を過ごす」
シンプルに言えば「食べる」「眠る」「出す」が出来ていれば大丈夫で、どれかがダメなら、何かのサイン。
こんな事を、頭において日々暮らしています。
今回の質問は価値観の差
家族間やパートナー間でも生じるヤル気・熱量・ポジティブとネガティブの差について。高嶋さんはその差が生じたときはどう対処するか。特に近しい人とのネガティブ要素が大きいと、移されたり、苦しいと思うのですが。
※分かりやすくするために、あっさりと書きました。実際はもっと丁寧に質問してくださっています。
回答
一言で言ってしまうと「それを対処しない」「私は苦しくない」「そう感じる事がほぼない」
(何と冷たい答え・・・と、ツラくさせてしまったらどうしようと思うのですが、これが私の今の価値観です。過去の私は違う答えを出していると思います。)
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どうしてそんな風に思うの?と聞かれたら、
「相手は私では無いので、やる気、熱量が違って当たり前だから」
と答えます。
違いに腹が立つ、悲しい、のは「一緒だよね」と期待しており、私から言えばそれは「欲」でしかない。
目に見えない事に「一緒」を計るのは難しいのにだ。なのに一緒を望むのはあまり意味がない。
それでも「一緒」を感じたいのであれば「そこに一緒に居る」という事だけで充分と思う事にしてはどうだろうか。
何をしてもらえなくても、何もできなくても、嫌な事をされても、思う様な姿でなくても、そこに居るだけで、いいのでは、と思うのです。
私は家族に対してのみ、そう思うことにしたんです。私の幸せの為に、本人たちの意見を変えて欲しいと思う事を止めたんです。
(言っておきますが、この考え方はある意味危険ですよ。誰彼構わず勧めたりしません。)
私は良く「ゼロ」の話をします。欲をかいて、ソレが叶うと一瞬は嬉しいと思うけど、いつしかそれも「普通(ゼロ)」になります。そして、もっともっと、もっとして、もっと頂戴、もっと頑張って、となる。
キリがない。まずは今ある状態で満足する事を知る事が大事と思う。
物理的に一緒に居ても「離れている。遠い」と思うのであれば「相手がどう思うとも、私は想う」だけでもいいのではないだろうか。
そうすると今度は物理的に離れていても「共に居る」を感じる事が出来る(勝手にですが)。
見返りを求める事は「欲」であり人からしてもらう事で満たされる欲は、結局自分の渇きになる、タチの悪いものになる。
不安を感じる時は、体調や、最近の忙しさ、人間関係、気候、月の満ち欠け、なども踏まえてその問題を取り巻くものを客観的に考えて、判断するといい。誰かのせいにしても、不安や不満の解決にはならない。
過去、私は違う答えを持っていた
今の様な考えを昔からしてるのか?と聞かれればそんなことは無く、むしろ真逆。考え方を変えたきっかけは、もちろんあった。(またいつか、少しずつ話すけれど)
考え方を変える前は、人(家族)に依存していたので、とくに子供のネガティブな発言やツライ話題があると、すごく(異常に)心配し、その心配を与える誰かや何かに腹が立ち、排除してやらねばと思って、出来る限り対処した。
大事な人を、嫌な事や困難から守らねばと思っていた。良いものを与えたい、いい人に囲まれて欲しいと思っていた。
いや子供のためと思いつつ、結局のところ自分が幸せで居たいという事に執着していたんだと思う。
そして自分が考える解決方法が一番だと思い、それを家族や夫から否定されると腹が立った。
とにかく全てが悪いスパイラルに巻いていた様に思う。家族との価値観の違いに不安を感じたし、言葉やモノ(目に見えるもの)で、常に幸せを確認しようともとしていた。
(私の夫はネガティブな発想がない・・・というか、不安や悩みは、そう思わなければ無いのと同じと思う人。すべての問題には解決方法(落としどころ)があり、結局は本人がやること事と考えている人。私も今はそう思う。)
もうちょっと丁寧に回答すると
①相手と差を感じた、その瞬間は
→そうか、そういう考えなのね、と思って終わる。期待し、がっかりする=自分の欲が関係している
②ネガティブ要素が大きく、こっちに移されたと感じたら
→ネガティブを私に移して本人が楽になるのであれば移してくれて構わない。(基本的にはそれを受け止められるコンディションで居るから大丈夫。)相手が家族であれば、その苦しさ、変われるものであれば変わってあげたいと思うもの。だけど、それが根本的解決にならないという事は、子供(大事な人)であれば伝えていきたいと思う。実際、子供たちはほとんどの事を自分で決断して、解決してきた。今でも「ツライ」と言われたら私もつらいけど、相手に言えることは「それを解決するために、君は何を選んでもいい」という事。
これ、他人の場合私は丁寧には説明しない。説得も話もしない。(お客様は他人ではありません。ちゃんと聞き、アドバイスは?と聞かれれば答えます。)
「これがこの人の困難なのか」と思いつつひとまずは聞き、
ネガティブ思考が続き、こちらに依存して来る内容で、さらにあまりにもズルい内容であれば、なるべく早くその相手から、なるべくソッと離れる。
大事な人の為にコンディションを整えておきたいので、必要のないエネルギーは使わない事にしている。
③苦しい
→苦しむ必要はない。これは自分にも相手にも言える事。自分の悩みに相手を付き合わせて巻き添えにしてはいけない。「それを乗り越えるのは本人しか出来ない」ので、助けてあげる事も助けてもらう事も基本的には出来ない。誰かが手をまわしたところで(仕事を引き受けるとか)(お金を出すとか)は、本当に小さい助け。手伝ってもらえるものは、その瞬間は(怒るのではなく)お願いして手伝ってもらえばいい。ただ根本の問題の解決は本人が自分で対処するしかない。
苦しいと思うところまで来ているのであれば後は対処すればいいだけ。乗り越えられる人に、そのタイミングで「苦しい」はやって来るんだと思う。私が出来るのは「いつでもそばにいる」という事。
自分も、相手も、どんなときも忘れちゃいけないのは「どんなときも絶対に一人じゃない」という事と「必ず方法がある」という事。
補足させてください
困難が来ない日なんて無い。理不尽な事は突如、日々やってくる(笑)。それなら逃げる癖を持つよりも「こなすスキル」を持つ方がいい。そうするうちに困難だったものが「へ」でもなくなる。
(困難(ストレス)の対処は戦うか逃げるかだからね。)
私が知っている素敵な、かっこいい人々、スキルがある人々は、いい問題を自ら探し拾いに行く。さらにスキルを上げる。そして困っている人を助けている。
自分もそれを心がけていたら、大きな問題だったことは「へ」でもなくなった。その中でふと自分の周りに居る人や問題に目をやると「グズグズ言うこの人ってずっと文句言っている。いつまでも同じところでグズグズ言っている」と、ちょっと偉そうだけど思う瞬間が出て来た。
また、自分が「面倒だ」「大変だ」と思う事をやってくれた人に改めて感謝出来る瞬間が増えた。当たり前じゃない事を「いいよ、やるよ!」と言ってくれた人に「ありがとう」と思った。
優しい人は必ず言う「そのありがとうの気持ちを次に困っている人に繋げていけばいいよ」って。
過去、自分は面倒な依頼や役回りから(役員とか、子供預かりとか、仕事とか)逃げられなくて「嫌だな」と思う事を、引き受けて来た。
帰りたい会合にも付き合った。出したくないお金も使ったり、時間も費やした。でも、やるからには「ちゃんとやる」事しか出来ないのでちゃんとした。人の話しもずっと聴いた。
だけどそのおかげで「人からの信頼」とか「仕事の幅、スキル」が上がった。これはある意味、感謝すべきなのかもしれない。そして、それがあったから、今は「これは無駄な時間になる」「これは付き合ってはいけない人」が”ある程度”分かるようになった。(そうしたことが良いと言っているわけじゃ無く、結果スキルになったという事。)
ネガティブを口する人に注意したいのは「私はこれがツライ」「これがムカつく」と乱暴な言葉を使っていると、その内容によっては自分の器の大きさ、スキル、経験値、価値観を判断され、人が離れていくという事。
ツライことは話して(放して)いい。だけど、その怒りエネルギーの使い方を間違えると、誰も周りにいなくなる。いいことには繋がらない。
それを周囲の人間が許してくれているうちに成長していい加減にしないと、いつまでも一緒に居てくれる、許してくれる、慰めてくれる、と思ったらそれは大間違いで、人は自分を守る為に離れていく。
(自分がそうだった時、子供に甘えていた時、子供が離れていったなと気付いたことがあったから言える。ダメだなと思った事はまずそのダメを認める。直す事は、恥ずかしい事じゃない)
本当に分かって欲しい時、助けて欲しい時は普通に、きちんと説明する、お願いする。依頼する。
グチや言い訳をする事は「相手に嫌な事を共有してもらっている」だけでお願いになっていない。結局それは甘えで、相手に「じゃ、してあげる」と言わせたいだけ。しかも本気で助けて貰えない。
子供ならまだしも、いい歳の大人が「出来ない」「面倒くさい」「助けろ」「買って」「やって」を連発し、誰かの時間や手を煩わせているのを見ると「いったい今まで何をして生きて来たのでしょうか」と思う。
自分に出来ない事があるなら、困っているなら、普通に話そう。相談しよう。溢れる前に、伝えるんだ。(誰に言ってるんだ)「出来ない事」を伝えると「自分のスキルがここまで」と改めて知る事が出来る。自分のキャパを知ると、本当に楽だよ。
(余談)家族とパートナーの違い
私は家族とパートナーは、違うと思っている。二つとも大事な存在だけど、私の場合パートナーはビジネスパートナーし居ないので合わないと思えば「躊躇なく去る選択」がある。家族の場合は「去る」は無い。
広く見れば色んなケースがあると思うので、家族でも場合によっては「去る」があってもいいと思う。
■家族
どんなにつらい事が起きても、切れない人。切りたくない人。子供たちは、唯一自分の命と引き換えにしていい存在(だって命懸けで生んだ)
ただし、その想いが(価値感が)相手も一緒だと思う事は大きな間違い。一緒に居る事で苦しい、痛い、ツラい、縁を切りたいと思ったら・・・切っても切られても良いと思っている。切られてもしょうがないと思っている。それを招いたのは他でもない自分で、それをどうにかできる方法も、時間もあったはずなのだから。
そして、それは「気付かなかった」じゃなくて「自分の事しか見ていなかった」だと思うから。
家族とは過去と未来のつながりの中に、今一緒にいて、共に未来を作る存在。古いかもしれないが、戸籍の中において、他の親戚も含めて、その面倒くささも含めて、一緒に居てくれる人。
■パートナー
自分の時間の「一部を共有する人」
※くれぐれも「軽い存在」というわけでは無い。
たくさんの価値と選択肢の中で、お互いを高め合う為に一緒に居る。高め合う前提で助け合う。それが出来ない場合、何の損得も無く別れる事が出来る。そうでないといけない。依存したり、利用したりしてはいけない。(そのくらい、儚いものと思って大事にしないと、無くなる存在。だからお互い大事にしないといけないと思う。)
何の損得も、法律も、保証もないだけに、目には見えない信頼が必要。話し合いとすり合わせが必要。疑い出せば、キリがない。
全てが同じ価値観である必要は無く、大事な部分(私で言えば、仕事の価値感、自然への価値観、旅の仕方など)だけ同じであれば充分。
ビジネスパートナーは、そういう価値観で一緒に仕事をしているので、今は信頼できる人しかいない。利用された(自分の時間、スキル、お金、人を奪われた)と思ったら次の仕事は一緒にしない。自分を大事にすることを忘れない。また大事にしてくれる人をパートナーとする。
失敗はこれからもする。ツラい事もきっと起きる。
くれぐれも、皆にこの考え方を勧めるわけじゃない。こんなに立派な事を並べても、これからもきっと大きな失敗もするし、ツラい事も起きるだろう。だけど、今までいろんなことが起きた中で、考えを改めたり、悩んだりしながらここまでモヤモヤした考えをまとめられるまでになった。
つらい時に、支えてくれたのが自然であり、食事でもあり、香りやハーブだったからこの仕事をしている。仕事なら言葉にして伝えないといけない。そして回答を兼ねて、今回まとめてみた。
これが質問者の方への参考になるのかもわからない。また正しいとは言えない。けれど、私なりに幸せを感じて暮らせているし、以前よりも進んでいる、成長していると思っている。
子供は子供の人生があって、夫には夫の人生があって、いつ一人になるかもわからない。その時に支えるのは本人そのものと、その周りにいる人や自然。優しいものに囲まれていて欲しいから、自分もそういうものに囲まれていたいから、依存や欲にまみれるのが一番怖い。それは今のうちに改める事が出来る。その為に今日を、毎日を普通に過ごす、日々、その時々で自分をじぶんのまん中に戻している。