○○の日は、誰の為?

このブログは2023年6月22日に投稿したものを、少し手直しして再投稿しました。

これは私個人の価値観の話し

香川県高松市マンツーマンアロマサロン・スクールAromatico~アロマティコ~高嶋です。今回は、年に数回ある贈り物を贈らなきゃいけない日について書きたいと思います。

ブログの中で、記念日について否定する言葉を書きましたが、これは私がそういう日を苦手と思っているだけで、この日を否定するつもりも、個人の価値観を否定するつもりも有りません。「この日を、本当に楽しんでいるならそれでいい」と思っています。

だけど、苦痛なら「思い切ってやめる」のがいいです。私はそうして欲しい。お土産も、プレゼントもいらないんです。

その分「良いものが見つかった時に、思い付いた人に、送る」正直に贈り物を選ぶのが良いと思っているし実際そうしている。

誰かから何かもらう時も、そういう気持ちのものを貰いたい。だから何か貰った時は、疑うことなく、そういう気持ちで贈ってくれたものとして受け取ります。

○○の日。年間手配しておきたい時もある

家族や友人の誕生日
父・母の日
敬老の日
盆暮れ正月
バレンタインやホワイトデー
お歳暮、お中元
おまけに年賀状や引っ越しのハガキ
お祝いと内祝い
引き出物に満中陰志

昔は、SNSもなく、電話と手紙のやり取りだけが「お元気ですか?どうしていますか?」の確認手段だった。今ほど旅行も気軽では無く、だからこそ「お元気ですか?ご無沙汰しています」のやり取りのきっかけが1年の中に散りばめられていたんだと思う。

これは素晴らしい文化ではあると思う。これがあって良かったという事もあると思う。だけどその反面で「いつやめる」「いくらにする」「嫌いなのに送らないといけない」の問題もずっとついていたのも確か。

私は正直、こういうナントカの日が全部苦手。のっけから嫌な事を、誤解されそうなことを言ってしまった、とすぐに後悔したくなるんだけど本当なんだからしょうがない。

くれぐれもこの日を否定したいわけじゃない。この日が感謝を伝えるきっかけの日でよかった!と思う人がやればいい。繰り返すが「やりたい人」だけで「やれる範囲で」やればいいと思っている。送った人の嬉しそうな話し、貰った人の嬉しそうな話しは、聞いても嬉しいし楽しい。

だけど「貰った人の話し」の中で「もっと別のものが良かった」とか聞くと「なら相手に来年からそう言え」と思う。送った相手の人(旦那、子供、友人など)の事を想うとツラくなる。そして不快になる。

そして正直、自分ですら父の月命日に送る花は、サブスクの年間手配だ。くれぐれも言っておくが、その花屋も4件ほど、何回か続けて使って、どんな状態で贈られるか、花のチョイス、サイトの使いやすさ、など見て1つに決めた。予算は1回12,000~15,000円でいろんなところから送った。

「面倒くさい」「盆暮れ正月に実家や親戚回りに行くくらいなら、家族で出かけたい」「祝いたいけど、予算が・・・」という声も、チョコチョコ聞く。さらにSNSやテレビでトレンドなんかが報道されるもんだから、変な予算基準や商品基準が出来上がっていて、何となくそういうものが良いんじゃないか?みたいなことになっている。私はそいういう話題が苦手だ。イライラする。

正直がいいよ

もうね、無理なら無理というしかないよ。その日が来るのが「ああ(;´Д`)」と思うのは嫌だよね。そしてもらえる方は、普段の気持ちで充分だと伝えればいいんだと思うんだよ。普段の気持ちって、普段のやり取りの中で感じる「今日も普通の日にしてくれてありがとう」みたいな事だよ。報道もさ、お金じゃ買えないものがある事を伝えて欲しいよ。それじゃ視聴率取れないのか?

もう、大義名分、皆貰うんだから欲しいとか、贈らなきゃいけないから、とりあえず何か送る、というのは終わりにしたらどうかと正直思っている。これだけコミュニケーションツールが増えて、いつでもプレゼントやメッセージが送れる時代に、ドンピシャでその日に何かするというのは終わりにしたどうか?と。

良いものを貰えるかどうか?とか、誰から、何人から、どんな言葉が送られるか?とか、自分でコントロールできないものに期待をし、遠巻きに何かを要求し、「どんなお祝いがあった」そんな話でスゴイだなんだと盛り上がる時点で、私は、この○○の日はやっぱりオカシくて、誰かに負担を掛ける日なんだなという再認識する。

メディアとSNSのあおりに巻き込まれているのがイヤだ

加えてメディアやSNSのあおり・・・。「こんなものが良いらしい」と、決して安くないもの商品を勧めるている違和感。お母さんは、お父さんは、たとえ10円の飴玉1個だって嬉しいのに。夜の晩酌に「うまい棒」1本だって嬉しいのに、さらに言うなら子供が楽しそうに元気にその日を生きてるだけで嬉しいのに。未だそんなことを言っている番組は見たことない。(そりゃそうか・・・)

これに関して勢いでもう少し言っちゃうと、朝のニュース、NHKですら「父の日」の特集で「お父さんの家庭でのポジション」について、母の日より、予算も注目度も低いというデータについて、苦笑いでコメントしていた。はい?その苦笑いは何なんですか。そのデータは何なんですか。私には何が面白いのか全く分からなかった。世の中の8割が良しとするものを届けるニュース。朝起きて、今から働きに行くお父さんが、このニュースを見てどう思うのか?とは考えないのか?バカなのか?と、テレビの前で立ち尽くした。

これは7時のニュース、日本の1日の朝のニュースだぞ。来(きた)る18(日)の父の日は※、あたかも家族からの審判を受けるエックスデーなのか。これはいったい何なんだ?。家庭と貧困、不登校、リストラなどの報道をする番組がこういう特集を朝から楽しかろう、良かろうと思って報道しているのは違和感でしかない。いいんだよ、父の日その日はいつもの日、デートに行ったりゆっくり寝たりでいいんだよ。何かのきっかけが有った時に、子供本人が「これはお父さんのおかげだな」そう思った時に自分の気持ちで自分の言葉でそのタイミングで言えばいい。まったくテレビをつけてしまった自分を叱りたい気持ちなった。やっぱりテレビは見るもんじゃない。

※このブログは2023年6月22日の投稿

嬉しいの大きさは「意外性の幅」。値段じゃない。

脳のメカニズム的に言えば、贈り物の喜びとは、値段の高さ低さじゃなく「意外性の幅」
つまり「○○のバッグが欲しい」と言っていた自分に、○○の日にそのバッグが来たとして、それは相手からの想いなのか?と思うわけ。自分が刷り込んだ情報じゃないか?と。

もちろん「ぜひ僕が買ってあげたかったんだ!」という事もあるだろう。考えるの面倒、お金はあるし、あれこれ考えなくて楽という事もあるだろう。

だけど、もらう側として、自分が○○の日に向けて、買ってもらえるかどうか?なんて期待したり、不安な気持ちで日々を過ごすことがイヤじゃないか?貰えなかったらがっかりするとか、アピールに気付いてもらえなかった「チェッ」って思うとか嫌じゃないか?幸せは、喜びは、与えられるのを待っていると、イラつく事が多くなる。自分で作り出す癖をつけた方が早い楽しいよ。

パートナーが、子供が、何かを頑張って買ってくれたとして、その後ピーピーな生活してまで欲しいものは、何も無い。私は屋島に一人で登るだけでも幸せになれるから。会えた時に、一緒に、楽しい話が出来たらそれで充分。メディアにのっかって「○○の日だから、その日くらいは親孝行を」とか言われて焦って何かを選んでいたとしたら・・・ああ切ないわ。ハンカチ一枚で良いから何か欲しいとか言う親の気が知れない。ハンカチ一枚、まあまあするんですけど。いやもう、ほんとね、子供は生きてるだけで親孝行やで。もし”何かネガティブな事が”起きている人がいるとしても、生きているということは、次の可能性が残されているわけだから。

余談だけど、意外性の話しから言えば、夫が何もない日に「これ美味しそうだから買ってきた」という美味しいプリンは、ブランドのバッグと同じくらい嬉しい。まさに「意外性の幅」だ。プリンの前を通りかかり、私を思い出して買ってきてくれた事が嬉しい。安い高いじゃなくて、想ってくれたという、お金で買えないものをくれる方が嬉しい。私は値札じゃなくて、気持ちで幸せを感じる人で居たい。そして美味しいプリンを選べる人が私は好きだ。高いバッグは、要らない。(もちろんくれるというなら貰うけど、くれぐれも選ばせてもらいたい(笑))

自分が子供の時に感じていたこと

ところでなぜ、こんなにもこの○○の日が嫌いなのか?原因は、たぶん子供の時の父の日母の日に、少ないおこづかいから何かを買うのがとても大変で、何日も前から憂鬱だったから。お小遣いをもらっても、これは取っておかないと・・・と、何も使えなくて、だったらもう今月はいっそ差し引きゼロでお願いしますすら思っていた。

予算が無い中で、何時間も五香のイトーヨーカ堂と常盤平の西友を回り、その中から買えるもの、喜んでもらえそうなものを選ぶ。そして、仕方なく選んだ値段のわりに見栄えするプレゼントは、センスのないガラの包装紙にくるまれ、偽物のカーネーションを否応なしにくっつけられる。このセンスのないラッピングは子供心に本当に嫌だった。繰り返すが、本当にダサくて嫌だった。

一方の両親はプレゼントを受け取り、嬉しそうにするわけで、私はその顔を見て「ああ、やっと今年も無事に終わった」と思うわけ。つまり「いつもありがとう」という思いよりも「ノルマを守った」という気持ちが勝るわけだ。


両親はプレゼントを受け取る時「この子達のこの感謝の想に応えられる様に、また一年頑張ろう。どうかいい毎日を送れますように」と思ったのだろうか。それとも「ああ、プレゼントが来た。良かった」”とだけ”思ったのだろうか。誰かと「うちの子からはこんなものを貰ったのよ」とか比べたりしたのだろうか。きっともちろん本当に喜んだのだろうが、私にしてみればそんなことよりも、5月6月と続くお小遣いの使えないこの月は本当に嫌いだったという記憶しか残っていない。それが終われば夏休み。相変わらずお金が必要な日々が続く。(長女の私はいい子なので、お年玉等の臨時収入は全て母に渡していた)

社会人になっても両親へのプレゼントを買うお金があったら、本当は自分のものを買いたかった。だけど、相変わらず母の日コーナーはあったし、買わない、無視する、という事は許されなかった。(後に、延々ともうやってられないと思い、この茶番の様なやり取りをもう止めたいと思います。良いものがあった時にその都度送ります、と連絡したけど。)

自分の子供に思う事

ちなみに私には2人の娘がいて、社会人になった2人は、この○○の日に贈り物を送ってくれた。そして私は大変悲しく、申し訳なくなる。今、お金はあるのか?選ぶのに苦労したのではないか?と。贈り物を選ぶ時間を自分の好きな事をする時間に当てて欲しいと思っている。でも一番の理由は、きっと、「面倒くさい」と思っていたら・・・と、それが怖いんだと思う。

母の立場の私は、子供たちに事あるごとに言う。プレゼントはもとより「お母さんありがとう」「お誕生日おめでとう」それをその日に言わなくていい。言い忘れたとかも思わなくていい。その日の為に、何日も前から贈り物の選択に縛られないでいい。その日がいつも通り普通に、できれば笑って楽しく過ごせていてくれたら、それが一番のプレゼントだと思って毎日過ごしているからと伝えている。これも、人によっては「え?」と思うかもしれない、でも私は伝えておく。後悔したくないから。

ありがとう、おめでとうは、何かの時に、その都度に、いつもちゃんと言ってもらっているから、それでいい。その日に絶対忘れず言わなきゃなんて思わなくていい。もう普段そのままいてくれている、全部が充分なわけ。

そして残念なことに、2人はもう生まれたその瞬間に、さらにこれまで一緒に暮して来た過程で、一生分の親孝行を終えてしまっていて、それ以上のHappyなものを贈る事は難しいと思うわけ。そして、私にしたら、それ以上を望むことは、私の幸せの軸が狂う事にもなる。

回りが「母の日に何もなかった」とか「こんなものくれた」という話題、人は人なので何も思わない様にしているけれど、実は話題になる事すら嫌な時がある。何もなくてもいいじゃないか、今日どこかで笑って息していたらいいじゃないか。それ自体がプレゼントでいいじゃないか。母同士で「何もない日をくれてありがとうだね」って笑えれば充分じゃないか、と思っている。

今私が親にしている事

今私が、プレゼントに関してどうしているか?というと、ノルマで送る○○の日のプレゼントというものに嫌気がさし、自分の両親に何かを送る事を止めた。メッセージも送らなくなった。これはまた、ゆっくりと書きたいが「もうこんな茶番のやりとりはイヤだ」「この日が来るのがツラくてしょうがない」と実母に伝えた。実家に帰る際にだけ、その季節や状況に合わせて、自分の目で選んだ母の好きそうなものを手土産で持って行くことにしている。

ちなみに、父は昨年2022年の7月に亡くなった。この「茶番なやりとり」について、深く話すことは無いまま。突然プレゼントを止めた私がどんな想いだったかは何も知らないまま亡くなった。聞かれもしなかったし、その後の様子については父は「そんなことを聞く気もなかった」事が分かった。

嫁いだ私が、実家を出たら新しい価値観になり、それは自分とは合わない、ただそれだけという事で、それでおしまいにした。私は、両親の価値観について長く苦しんだけれど、価値観というものは正しさを追うものでは無く、生きやすさを追うものだと、答えを持つようになったので、これで良いんだと、今は思う。ね、これで良いよねお父さん。

この状況を「もっと分かり合える方法があったはず」という人もいるかもしれないが、そう簡単な話しじゃないんだ。「父も私も、自分の価値観を伝えきり、押し通した」それゆえお互いがお互いの犠牲にならずに、自分を失わずに過ごせた、これはすごい事だと思う。父が亡くなった今は戦いが終わった様な気持ちすらある。

だけど、私は我が子とこんな関係では居たくない。価値観が合わない場合はね、落としどころを一緒に見つける。そういう作業が本来残されている。父とはそれをやらなかった。でも、こんなにこんなはっきりと気持ちを文字に起こせるのは、父とのこの苦しいやりとりのおかげ、そうして結構これも仕事になっている(笑)感謝してるよ、お父さん。

義父母へは、こんな私の心理を、時々話して来た。でも私や両親を責める事はせず「お父さんはきちんとした、楽しくて、そして立派な方」と、言ってくれる。戦中戦後の背景から来る、父の性格や過去を知っているかのように、両親に寄り添ってくれる。そんな義父母へ、私は○○の日に出来る範囲で、ダサいラッピングなど無しで、飲んで食べてなくなるものやお花などを持って行っている。また、当日に贈り物が出来るかどうか分からないので、日常的に、出来る時に、出来るものを持って行っている。

贈り物やメッセージは、”とりあえず”ではなく自分でちゃんと考える

あの・・・・最初から、こんな出来た人間みたいな、事を思っていたわけじゃないよ?それに気づかずに生きていた頃は、このブログの最初に書いていたみたいな「とりあえず送っとけ」の嫁、子、妻、だったし、「世間体的に何か欲しい」という母親だったよ。傲慢で強欲で。

きっと神様が、あまりにも自己中な私に、自分がどれだけ傲慢かを気付かせてくれたんだと思う。このままじゃみんなが不幸になるから。そのおかげで「あれ、実は全てもう、自分の手の中、心の中にあったのか」と気付いてしまった。そしてその時に私の一生分のプレゼントはもう終わってしまったわけ。

まったくね、「まだ間に合う○○の日の贈り物」こんなものにポチっとして「ふぅ間にあった」とするたびに、何の意味があるんだろうかと思っていたよ。時に、こんな私でも本当に気持ちのある贈り物を貰う時がある。それは受け取る方も分かる。そして私も本当の贈り物をするように心掛けている。

○○の日に関して言えば、それは自分で祝えばいい。その日、穏やか気持ちで、または楽しい気持ちでいい時間が過ごせていたら、それは自分の周りの人のおかげ。それこそどこにも売っていない、一番贈り物じゃないか?

(最後に)こんなことを書く理由

常識的には、普通は、・・・という言葉。それは大事な時もあるけれど、もはやどれが本当の大事で普通な事なのか?

たくさんの普通が並べられ、その中から自分が納得するものを選んでいい時代。何も考えずに流されて苦しむ大人がいっぱいいて、一方で「おかしな普通」を自信満々にごり押しする大人も多くいる。そこで私も「これが普通」のひとつを広めていけたらと思うのです。私の周りには、私と同じような考えを持つ人が多くいます。

  • 企業に踊らされる人が減りますように。
  • 贈らないといけないという風潮がなくなりますように。
  • 記念日投稿に傷つく人が居なくなりますように。
  • 人からのもらい物(プレゼント、SNSのいいね、等)で、満足する自分になりませんように
  • 本当に心のこもった、身の丈にあった、言葉と贈り物が行き来きする世の中でありますように。
  • 満足のラインは、なるべく低く。小さな「おお♡」が散りばめられている毎日を過ごせますように。

SNS発信について、このブログを含め、私は良い事だと思っています。また、これからの時代、これを避けては暮らせないでしょう。自分も仕事の宣伝上SNSは必須と思っています。ただ、見る人が、イヤだなと思ったら、心がザワついたら、どうか見ない設定をして欲しい。いいねをしなくても大丈夫。「私はいいね、するのにあの人はしてくれない」と文句を言う人は放っておけと思っている。

そういう人とは繋がるのを止めればいい。そういうコミュニティには入らない。だから私は心がざわつく時は、人の投稿は見ない様にしています。自分の心と時間を守る為に。自分の価値観がどこにあるのか?丁寧に考えながら生きて行って欲しいと思います☺

自分はこうする、私はこう思う、を書く事は結構怖い。だけど、私が言うのは一番は子供たちに向けてなんだ。子供が大きくなって、勇気を出して自分の気持ちを、やる事を、きちんとした言葉で発言が出来る様になって欲しい。

だからこれからも時々、こういう事を書いていくよ。

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