不登校≠問題 不登校は問題じゃない
不登校についての私の考えです。
目次
ウチがオカシイの?私が変なの?と絶対に思っちゃダメだ
くれぐれも、不登校についての私の考えです。
「私がおかしいの?」「私がダメなの?」と、思う少数の人(1~2%)に何かが届けばいいと思って書きます。
不登校検索して、もし自分のパターンに該当するものがなくても焦らなくていい。当てはまらない理由は、ほとんどの記事(意見)が「多くの人に当てはまる様にふんわりとしたことを、耳触りよく書いているから」だと思うんだ。
結局、そんな意見は「なんでもない人が読むためのもの」と私は思うんだ。家庭環境、経済状態、病気、障害、色んなオプションが付いたら?ほとんどが当てはまらなくなる。他人がくれるアドバイスも結局はそのふんわりとしたものを基準にアドバイスしてくれるから、もやもやするんだ。
もしうるさいな、と思ったら「私の何を知っているの」と伝えて怒っていい。自分を守っていい。
友達さんはその言葉をを受け止められないなら口出しをせずに自分の無力をまず認め、それでも何かやってあげたいと思うのなら、目の前の、困っている人の雑用(役員、送り迎えなど)物理的なものを黙ってやってあげたらいい。
そして物理的見返りや「私には話してくれた」みたいな嬉しさは絶対に求めない事だ。もし何かを困っている相手に伝えたいなら「いいから、いいから、早く休んで。何か困ったら連絡して」と、伝えて去ろう。
子供が「学校へ行かない」「行こうか」と迷っていた真っ只中の時、また子供と私と夫が、色々考えた末に「もう行くのをやめよう。別の道を考えよう」という選択したとき、それまでに私の周りの人から(いわゆるママ友、知り合い、身内、医者、学校の先生、臨床心理士等)色んな話を聴きました。
自分から聴きに行った事もあるし、聞くつもりもないのにつかまって聞かされた事も含みます。その他に、たくさんの本を読んで、不登校に関するサイトを探しました。
どれも「うんうん確かにそうだな」と思えた部分は全体の1~2%しかない、と思った経験があります。探しても、当てはまるものがない・・・そうなると、「ウチは相当深刻なケースなのか」と不安にすらなりました。(結局は全く深刻では無かった。私の捉え方の問題だった。なんにでも答えは、どこにもなくて、自分で出すもの。それが正解。と私がいつもいうのは、この経験があるから。)
周囲の人たちの表情が、さらにそれを不安にさせました。今思えば、普通に過ごせている人が、不登校に関するスキルもないのに、ランチ行く?話聞くよ?しか言えないなら、不用意に近づくな・・・と思います。心配しているよ、出来ることある?を伝えたいなら、その人が抱えている「面倒ごと」を引き受けてあげてください。面倒事とは、役員の仕事やスポ少の当番、小さな面倒ごとです。
私が、まとめ役、役員やリーダー(責任を取る人)の役を引き受けがちなのは、「そんなことくらい」だからです。時間があるのにも関わらず「そんな大役」と言ってちょっとした責任を負ったり、まとめ役すら出来ない人が、人の深刻な問題に口を出してはいけない、そう思います。
すでに、この言い方がキツイ、怖い、嫌だと感じる方もいるかもしれませんが、あやふやに受け取られたくないから、自分の思いをキチンと文字で書いておきたいだけで、誰かや何かを責めるつもりはありません。
生半可な気持ちで不登校の子のトリートメントや傾聴、講座をしているんじゃない、と言う事も伝えたいです。
今の私と自然とのかかわる時の目線や、講座の中で伝えたいことは、少数派の経験をしたことが影響しています。くれぐれも、子供が学校へ行かなかった事自体は全く問題ではないです。結局は私自身の問題だったという事ははっきり伝えておきます。
誰にとっての問題か、それぞれが考える
アロマティコには不登校以外に、メンタルの事、家族関係の事、問題が無くてもこれからの為にと来られる方がいらっしゃいます。
来られた方には、今の状況の中で「問題」とは何なのか?を聞きます。それから「目的」です。これからのビジョン、どうなりたいと思っているのかを聞きます。
聴いていると「子供の不登校」の話しから「自分の理想的な子育てからずれた事への言い訳や、くやしさ、自分の価値観の正当化、子供の幼さ」のような話になる。そこで確認する。一体誰にとっての解決案を探しているの?と。(きついかもしれませんが)
これに似た事を、アロマを仕事にしたい人にも必ず聞いています。
綺麗な瓶を並べて、すごい自分を作りたいのか、誰かを本当に癒すサロンにしたいのか、と。自分の胸に手を当てて、確認しなきゃいけない箱が心の中にはあるわけで。癒しサロンは、きれいごとを並べただけでは人は来ないと思っています。
アロマテラピーやフィトテラピーの学びを深めていくと、あたりまえだけど習っていない事が沢山出てくる。そして自然療法とは結局は自分の中身とのバランス調整なんだろう、にたどり着く。材料の選択も使用量も、結局は人を良く見て、話しを良く聴いて、本人も自分の中の声や様子を見て、そのバランスを決めないと、ただのうわべだけの(レシピをまぜるだけの)香がある作業になってしまうわけだ。
自然療法のテラピー(Therapy)は、その人に合わせてアレンジする作業がある。その為には、レシピをなぞるだけではダメなんだと思う。
深く下げていくと本やサイトに出て来ない事を体験することもあり「え?」と言う事が起きる。データは9割は合っているし、それを知っておくのは、アロマテラピーをするのに絶対に大事。だけど活用していくと「起きるわけない事が起きることもある」という事を知る。
けど、1-2%はイレギュラーがあると知っていると、日常で何か起きてもびっくりしても、心底から揺さぶられなくなる。ああ、そういうこともあるよね、と思えるようになる。
不登校も、引きこもりも、外に出て戻らない事も(笑)単純にああ、そういう事もあるよね、という事のひとつ。だたそれだけのこと。一番困っているのは、大変な状況なのは、生まれて数年の「子供」。
それに対して親は先生は、社会は、私は、みんなで一端おちついて、そのあと何ができるのかを伝えてただ一緒に居る事。それしか出来ない。

不登校を調べる
色々調べると分かる。例えば全日制高校の退学者は当時、年に2~3%。(私が調べた時はそうだった。ざっくりですが)。
つまり100人の人間がいても同じ立場の人は2人か多くて3人だ。この数字を見て、私は誰かに助けを求めるのはやめようと思った。そして近寄って来るママ友にも「私の事を分かろうとすることはやめた方がいい」と思ったのでやんわりと伝えた。
それから世の中のメディアや学校に向けて、そんな少数の立場にある状態を「不登校の問題」という括りにして、可哀そうな組に分けるのはどうなんだ?と私は思った。そんなことするから、普通に学校に行っている人たちは不登校を選んだ家族を「可哀そう」にする。本当にエライ迷惑だ。
問題=困りごと。そもそもこれは一体誰目線の問題の話しなんだろう。「困った問題が起きている」と子供自身が訴えて、初めてそれを問題に認定するべきじゃないのか?
メディアの内容の多くは先生、保護者目線の問題として取り上げているように思う。大人が困っていると言っている様に聞こえる。
「不登校児がいるクラス担任や学校長は、人事評価が下がるので、不登校児を登校させた形にどうにかしたい」と困っている。
「不登校だと、親の育て方が間違えたと思われる。普通に通ってさえいたら私は幸せ」と、親が困っている。普通に通って欲しいと、親が願っている。
番組を見たら「見たいと思うのは大人」だな、と思うものばかり。
当事者の子供はおいてけぼりで(子供の話しをほとんど聴いていない。近年の不登校率などの数字やデータが並ぶ。そういう、手間がかかっていない番組だと感じる。)
学校や担任や社会目線の言葉の様に思う。不登校児の保護者に向けての言葉の様に思う。だからその文字通りに受け取ってしまって「うちの子は問題なのだ」と余計に親は不安になるのだ。
また、ママ友たちは「こういうことなのね!」と知ったつもりになる。
番組内では定義も解決方法案も、キレイな枠の中に理想論として書かれ、理路整然とまとめて説明している。そんなもんじゃない、そんな簡単なもんじゃないよ。
いや、本来不登校ってもっとぐちゃぐちゃした、奥深いもんなんだけどなぁと、私は思う。ぐちゃぐちゃしたもんなんだよね!って誰か言ってよと思う。何よりも子供の話し心に浮かんでいる言葉や気持ちを、もっともっと聞こうよ!想像してみようよ!取り上げてよって事を言いたいんだ。
あの時、ウチの子の話を聴いてくれた大人、先生、見守ってくれた人、たくさんいたから私は自分の立て直しが出来たんだ。もっと丈夫で健康で、真剣な人を増やすような番組を作っておくれよ、と思う。
「不登校問題」という言葉は便利
世の中的には「不登校=部屋から出られない」というイメージだろうか。ネガティブなイメージだろうか。確かに多くの不登校の子はそうなのかもしれない。
だけど部屋からは出て、家からも出るけど学校行かない子もいる。出たまんま、なかなか家に戻らない子もいる。いや出たまま戻らないのはむしろ良いんだよ。それは道を探しに出ていると思うんだ。(だから安全な場所を私は作っておきたい。ウチには子供であれば、いつでも誰でも来て欲しい)
不登校の定義があるのは、管理上仕方がない。別にいい。だけど大人が(学校が)管理上の言葉として定義づけているだけなのに、それに当てはめて「この子は不登校」「この子はまだ、不登校じゃない」と、自分たちがひと括(くく)りにするのはやっぱり違和感がある。
そして「問題」という呼び方。他の呼び方何かないかね。不登校=登校にあらず、だけど「問題」なぁ。なんか「問題」と言われたらなんだか落ち込むじゃないか。頑張ろうと思っている子はいるだろう。それを「問題」はつらいぞ。
特に当人は「問題です」と言われたらこれもツラいのよ。「人様に迷惑を掛けている」という感覚になる→ただしここは、親の乗り越えポイントで、自分のツラさを解決するために子供を登校させるのは、これまた新しい問題。
「行かなくてもいいんだよ」って、呼びかけもどうなんだ
そして問題だと言っておきながら、こんな呼びかけもあるよね。
行きたくなければ行かなくていいよ、身近な人に相談を。
どっちだよ!行かせたいのか!行かなくていいのか!その後も教えてくれよ~と思う。
呼びかけ自体は何も悪くない。でも、それって本人に届くように本気で言っているのか?と、ちょっとモヤモヤする。「大人は対策をしています」ってパフォーマンスをしている様にすら思う。
時に有名人が「私も・・・」というのを見るけど、それを見て普通の人は「頑張ったんだなぁ」ってそ人をエライとか思うかもしれないけど、それさ、届けている対象が違うと思うんだ。キャンペーンで誰かに頼まれて呼びかけても伝わんないよ。
本気で呼びかけなければ届かない。本気とは「ひとくくりにしないで、その子バージョンで、考えている事が相手に伝わっているかどうか」だと思うんだ。「あ、これ私に当てはまるかもしれない」と思える事を伝えているかどうか。
それなら、年がら年中、SNSにもお金を掛けてでも広告して欲しい。テレビの特集で、新学期はじめにキャンペーンの様にやるから薄っぺらくなる。本当に心配しているなら、ずっと、夜中も、不定期にやって欲しい。
クラス分け、修学旅行(と説明会)、運動会、遠足、進学説明会、総体、ツラい時期は1年中24時間ある。
沢山のパターンやいろんな解決方法の提示があれば「私はこれかも」と、悩みを解決できる確率は上がるのに、私には「大人は考えているよキャンペーン」の様に見える。
頑張れなのか、休めなのか・・・・。本人は迷っている。それから身近な人に相談を・・・と言っているけれど、相談に来ない理由も考えて欲しい。相談をしていい人かどうか、ジャッジをして「信用できない」から相談しないのかもしれない。これ以上傷付きたくないから言わないのかもしれない。または「信用できるか」観察している段階なのかもしれない。
行かなくていい、ひとまず休もう?無理しなくていいんだよ、という言葉はその状況に掛ける言葉として合っているかもしれない。
でも、それをもし不登校の知り合いに言ってあげようと思う人には一言いいたい。
「その後も、相手によりそう勇気がないのなら、黙ろう(いや黙れ)」そんな勇気がない人の言葉は「ただの文字」だ。何も響かない。
関わってあげている自分が「相手の為になにかしてあげたと、喜びたい承認欲求的な言葉」じゃないか?とすら思うんだ。
例えば、言われた方の気持ち~私の場合~
なぜここまでキツク言うのか。自分が正しいと思う人は、このくらい伝えないと分からないから。良かれと思って・・・という、困った人、悪気はなかった人のせいで傷付く人を減らしたいから。一番は今後もし私が落ち込むことがあればそういう人に近寄らないで欲しいから。
私は、困っていた時に「聞くしかできないけど、良かったら話して」と連絡してきたママ友の顔を時々思い出す。彼女の話しの聞き方、相づちの仕方を見ながら、ああ、私は可哀そうな人なんだとドンドン落ち込む。こんなふうに相手を傷つける聞き方があるのを貴女は知っているか?と、怒りをぶつけたくなった(言わないけど)。
それでも話をしてみたら何かいい突破口が見つかるのではないか?と、質問されるがまま話してみる(質問がまるで尋問に感じた事を思い出す。いやそもそも、呼び出しておいて、そちらが質問する、がそもそもダメなんだけど。)
どこかから聞きかじった成功体験の提案をされる。一般的な解決法を聞かされる。(知ってる。だって本屋の本は全部よんだもの。不登校で検索したサイトも、全部読んだもの。あなたよりはたぶん知ってる。)
怒りとみじめさと悲しさ、何より自分の愚かさに気付き震えて倒れそうになる。間違いなく私の顔色、顔つき、声、指先に出て隠せないものが相手にも伝わっているのも実感する。さらに何故か聞いている相手の人の顔もツラそうになっていて、下手すれば「ほんとにツラかったね」などと一緒に泣く。いや「ったね、って過去形じゃないんだわ。まだ泣ける段階ではないんだわ。お前が泣くな」と思う。
上手く説明出来ないその気持ちを抑えて、じゃあねと何とか別れる。なのにさらにメールが来て「色々話してくれてありがとう、大変だよね、ツラいよね、身体に気を付けてね、いつでも連絡してね、早くいい方向に行くことを祈っているからね」と。もういいよ、黙れ黙れ、と思いながら「今日はありがとうね」と何とか返す。
さあ、これ、読んでいる人は客観的に見て、どう思う??何かの物語に見える?不幸に酔っているように見える?
私は今、色んな人と話をする時に、その時の事を基準に考える。答えは誰もくれない。答えは、無いんだ。だってその正解を持っているのは目の前の人だけだから。そしてそれは子供と決めていくものだから。
私は実はいつも自分に自信がないし、今日のセッションやクラスが上手くいったのか、満足して頂けたのかと不安だ。これはどんなに「高嶋さんはいつも熱心に仕事しているよ、聴いてるよ」と慰めてくれても、受講して下さった本人じゃない限り、それは分からない。不安だから、テキストを何度も練り直す。相手の欲しいものに合わせて作り直す。
実は私はお客様に必要以上に連絡を取らない。サンキューメールも送らない(お返事に気を遣わせると思っている。マッサージ、とても気持ち良かったですとか、御礼とか、言わせたかもしれない不安がある。実は私自身、サンキューメールに困る事があるからだ。これも正解は無いと思っている。サンキューメールを否定するわけでは無い。雛形が決まっている文章に対して、こちらは自分の言葉で返さないといけないのが嫌いなだけ。)
生徒さんとの連絡LINE(その日のまとめ、質問の答え、写真、次回のレッスン日の確認など)も、既読が付くから、そちらに必要がなければ返事をしなくてもいい。と、丁寧に伝えている。(丁寧かどうかは、生徒さんが決めることだけど)
質問は常時ウエルカムだけど、私からの答えに返事はいらない(既読が付くメッセージの場合)「今日もありがとうございました」「楽しかった」「タメになりました」という、返事に付いてくる感想が、気を遣った捻り出した言葉だったらどうしようと不安なのだ。ああ何だか話がそれたね。
己の無力を自覚しておく
関係のない無責任な大人(一部のママ友と言っておこう)は、「不登校」と括られた人になぜか関心がある。本当に心配してくれる人もいるだろうが(いたけど)、こちらからすれば、そんなことは実はどうでもいい。(どんなに心配しているか、を私に伝えてくれても、問題の解決にはならないから)
ありがたいけど他人はどんなに心配しても助ける事は出来ないと自覚をしておいて欲しい。親ですら、何も出来ないのだから、ただの興味で来た人に、何かできる事なんてほとんど何もない。
何かしてあげたいと思って近寄るのであれば「己の無力を自覚して」「罵られる事も覚悟して」「八つ当たりされるのが役目」くらいの気持ちで近寄るべきだ。
私のサロンにも「不登校の子がいて・・・」という親御さんが来られる。真剣に話を聴くけれど「何もしてあげられない」といつも自分の無力を思う。
そして私に出来るのは
・このお母さんが「どうしてこんなに不安か」と想像しつつ
・講座であれば客観的な話をし「ご飯を食べて、眠れる体」を、どうやって戻すかという、いつも通りのレッスンをする
それしか出来ない。
それしかできないから、それだけは一生懸命する。その為に色んな本を読んで勉強する、本当にそれしか出来ないから。
トリートメントなら黙るしかできない。聴くしかできない。友人なら、その人の抱えている仕事を減らせるように行動するしかできない。
ココに来る不登校のお子さんをお持ちのお母さんは、答えや解決方法を求め、アドバイスを求める方もいるのだけれど残念ながら既にそこが違うんだと正直に伝える(しかない)。ここには答えも、解決方法もない。なぜなら・・・と伝える。
ただし、こうして何かヒントはないかと、自分の意思でここに来て、つらい話しをして、アドバイスをして欲しいとか、高嶋さんの場合の話を聞かせて欲しいと動いた事自体は、めちゃくちゃすごく意味がある。うんすごくあるし、すごいと思う。どれだけ勇気が要っただろうと想像する。だから包み隠さず私の立場のことを話す。
娘の気持ちの事は話さない。私のフィルターを通して、彼女の見ず知らずの人間に簡単に話すことをしてはいけないから。私がその時にどうだった、という話は聞かれたらする。
自分が誰に対しても何も出来ないという、”自分の無力”を知っている事は大事。特に子供が深く悩んでいる時、親は結局ご飯を作るしか出来ない。もうそれでいいんだと思う。だって食べることは生きる根本だもの。
もしご飯を作ってあげられる距離に、相手がいない時は?→自分がしっかり美味しいご飯を食べる。え?そんなこと?と思わないでね。これ大事よ?いつでも駆け付けられる体、心、そして戻れる場所作りと、湯気のあるご飯を作れる気持ちと身体を持ちづづけて置く事。一番大事。
そして本当にそれだけでいいと思っている。逆の立場で考えてみて?そう思わないか?この人に頼っていいという土台を持った人に寄りかかろうと思うでしょう?
目先の問題を、ちょこまか小手先で解決するような提案をする大人はダメだと思う。その奥の問題がありそうかどうか?を深く考えて、奥を見てみようとする人が良い。ひとつひとつ丁寧に解決して来た経験したことがある人がいい。(つまり理想論は要らない。不器用でも、スマートじゃなくてもいい、とにかく物事を自分の意志で解決してきた経験値がある人がいい。)
問題=選択肢が増えた=選べる幅が広い
不登校がもしも「問題」なら、そこに関わるみんなが本気で、本音で、考えると早く動けるようになる。皆で検討する。環境、空間を整えるわけだ。これこそ大人の出番じゃないのか。
学校に行くのがイヤな理由はすごく単純で、選択肢が増えて困っている状態ってだけなんだと思うよ。答えが増えてしまって困ったと。
あとは人とうまくいかない。これもすごく単純で「自分が成長してしまった」だけ。人を故意に、または無意識に不快にさせる人は幼い。
つまり違和感が起きたという事は成長したんだよね、いろんな人の進み方や行いを見て、自分は困ったんだ。嫌な奴が居たり、嫌な事が起きたら「次の道があるんじゃないか?」と考えるといいよ。具体的に選ぶ方向としてはちょっと考えただけでも3つ浮かぶ。アドバイスとすれば「それぞれのメリットとデメリットを並べて整理して比べる」
①学校以外の学び方を探す→学校をやめる。学びの場を違う場所に変える。先に社会に出てしまうのも手。→子供は大人(親)に何をどう協力できるかを聞く。大人も子供に自分が何をしてあげられるのか伝える。
➁なんとかして学校へいきたい→行きたいけど何か問題があるなら、その問題を排除するか、折り合いをつけるのかの方法がある。何にせよ人に期待せずに自分で方法を考えて頑張る事も必要。→大人が出来る環境づくりは何か。本人が出来る事は何か。どちらも怒ったり、都合のいいように仕向けたりせずに、将来に向けての考えを出す。(他者に何らかの危害を加えられている場合はまた別の問題。そこに問題を抱えた人がもう一人増えているから。)
③今は何もしないことにする→相当弱っていて、身体、心、動けないのなら、まずは回復する。→大人(親)が出来るのは、人が生きるために必要な環境を整える事。安心して戻れる場所を作っておくこと。もちろん子供にもこれは伝えておかないといけない。どんな時でもココがある事だけは忘れないでと。もしそうなっていないなら、遠慮なく「心地よくない」と言ってくれと伝えておかないといけない。

2~3%の意味
学校をやめた2~3%
偏差値上位の2~3%
偏差値下位の2~3%
こんなシンプルな基準で人の幸せを判断する人は気の毒だ。
将来の進路先や就職先の選択への影響はあるかもしれないな。でも、その先一生幸せかどうかはこの数字では保証はされない。
その先の幸せはどんな経験をしてどんな価値観を持って生きてくかで決まると思う。自分が普段どんな人と付き合っていて、どんな場所で暮らしていて、それで自分が幸せかどうか、ぐるりと見渡すと自分で分かると思う。
どちらも甘えない、誘導しない
大人(先生、親、)
→自分の理想や希望を押し付けて、自分の都合のいい着地点に、子供を誘導しようとしない。誘導するとおかしなことになる。色んな思い(私欲)で意見を言い、行動するので、肝心の子供はこんがらがってぐちゃぐちゃになる。また、大人の都合のいい作戦はバレるし、さらなる疑念を抱かせる。ただし本気の思い遣りはきっと伝わる。その時じゃなくても必ず伝わる。特に食事や抱きしめる事など、生きる最低限の事は伝わりやすい。耳触りの良い事を言おうとしない、誘導しない。伝えた提案や言葉が間違えだと思ったら、すぐに謝って訂正する。そうすることで真意はさらに伝わりやすくなる。
子供
→
疑念は、大人にぶつけて良い。困った事、嫌な事は全部正直に言う。怒っても良い、泣いてもいい。大人が変に慰めたり、それを捻じ曲げて受け取ったりしたら、指摘していい。正直にぶつけることで、「自分に真剣に向き合ってくれそうな大人は誰なのか」を見分けたらいい。これは大人になっても持っておくと良いと思う。正直に話す癖をつけると嘘をつかなくてよくなるからね。
ただし忘れちゃいけないのは、あと数年で大人という事。今の状況は「自分は、その途中に居る」「すぐにそっち(大人)サイドになる」事も忘れない。大人になる為に必要なステップを踏んでいるという事を客観視する。
残念ながら誰かが自分の都合に合わせて問題を全部解決してくれることは無い。大人に期待し、大人を便利に誘導する方法を考えるのは将来の役に立たない。時間の無駄だ。自分が居心地のいい場所は、自分で作るしかない事を忘れない。これは大人になってもそう。
ここまでは自分で頑張るしかない、ここからは大人しかできないのでやって欲しい、これを言葉に出して言ってみる。親が分からなければ、祖父母へ。祖父母がわからなければ・・・・う~んどこだろうか。先生が分からなければ・・・、う~ん、これもどこだろう。信頼できる大人は、いるのだろうか。居てくれ、そういう大人が増えて欲しい。

私の子供へ
私が生きてる限りは温かいご飯と、暖かい部屋と、面白い話しを持って待っているから、ダメだツラいと思ったら何も持たずに、考えずにそのままの状態でココに戻ってきてください。
そして何度も何度も言っているし、こんなところで書いて欲しくないと思っているかもしれないけど、親に何かを返そうとしなくていい。
君たちは生まれた時点で親孝行が済んでしまっていて、それなのに、元気に育って、1人で暮らして、頑張ってくれて、優しくしてくれて、(私を人間として)育ててくれて、もう本当に充分、もう何もいらない。
私らに返すのであれば、自分の大切な人の為にしてあげて欲しい。その方が未来に繋がると思っている。こっちに戻さなくていい。
大切な存在の人の為にしてあげる事で、自分たちも幸せで心から楽しく笑っていればそれが一番いい。
欲しいものがもう何もないし、その存在で既に充分。幸せは、余分に持ち過ぎたらいけない様な気がして、有り過ぎると怖くなる(笑)
今日も生きているという存在そのものが、既に親孝行だから、毎日私もパパも親孝行されていると思っているんだ。ありがとう。
私が出来る事
ここまで偉そうに言えるのは、自分がたくさんの失敗をして考えて来たから。
どうしてこうなってしまったのだろう、と起き上がれなくなったこともあったから。
人を羨んだり、親を恨んだり、欲にまみれて過ごしたから。
もちろん、そんなこと私に比べたら・・・・と、言う人もいるだろうし実際もっと「大変」という人は居るだろう。
それでも、こんな事を延々と書いているのは、無力を自覚しつつも私が何も出来ないながらも「私で良かったらこれが出来ます」と発信するしかないからだ。
あの時、話を聴いてくれた友人、私の仕事を引き受けてくれた友人、何時間も私と一緒に居てくれたスクールカウンセラーの臨床心理士さん、高松市の電話相談のおばちゃん、学校の先生、旦那の親、に恩返しをするために。この恩を巡らせたい。
そして「親子の縁をしばらく切りたい」「自分の親、つまりあなた達との親子の関係が昔からしんどい」とぶつけた自分の親への恩返しの為に。
<私が出来る事>
・話を聴く→今の状況を客観視するのに役立つと思う。お子さま本人の話しでも、親御さんの話しでも、お孫さんの話しでも、何でも聴きます。
・今出来そうなことを一緒に考える→何なら出来るのかは人それぞれなので、今何が出来るのか、出来ないのか、整理する。
・アロマテラピーの講座→恒常性、ホリスティックな考え方、自然療法、そこから、健康や心、身体を安定させる方法を伝える。
・トリートメント→自分の身体の客観視と、人に必要なのは優しい手と優しいい気持ち、休息場所をお伝えする。
・リクエストに応じてお答え(応え)する
料金と連絡方法
ここにきてお金取るんかい!
と、言われそうですが、これが私の本気です。
私が、ツラくなって立ち上がる時、色々な事を学びました。安くないお金を払っていいものを得ました。料金と内容が合わない、合うもあったけど、それも感覚でしかないけれど、皆さん本気で教えて下さいました。こちらも料金を払った分、休まずに行き、真剣に学べました。質問もたくさんして先生って何だろうと考えました。
そして、無料の方が信用が出来ない場所や人が多いと感じました。
自分も過去に無料で、延々話を聴いていた事もあります。夜中のLINEに応えていたこともありました。でも、無責任さと、まやかしの安心感を与えているだけで、無料という事で甘えも出るし、お互いが疲弊して結局アカンやないか、と結論が出ました。
世の中には料金がかからない相談場所もあれば、病院、カウンセラー、色々あります。
公的機関でも話を聴いてくれます。(実際利用して、私は一瞬ですが、心が救われました。)
そして私は、仕事としてお伺いしすることにしています。
<料金>
コース名:リクエスト講座
金額:1回22,000円(リクエスト講座、お仕事依頼、傾聴、共通の値段)
時間:3時間くらい(メール等の事前のやり取りは無料です)
Googleのお申込みフォームにジャンプします。
どんな話をしたいのか、対面かZOOMか、講座を受講したいのか、など何でもお気軽にご相談ください。
アロマテラピーの講座自体も、そういう観点でおこなっています。自然を知る、ことも、人生を生きる事も同じ気持ちで向き合っています。
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上記以外に各種講座もこの観点でおこなっています。
私の講座は、精油の安全な使い方と利用法を伝えていますが、ベースになるのは上記の考え方そのものです。だからマンツーマンです。目的を受講者さまそれぞれの抱えているもののお話から伺い、探ります。
最後に
私は自分から「子供さん元気?」とか「今なにしてるの」と、絶対に聞かないのは、目の前の人が、その言葉におびえていたら・・・と思うから。傷付ける可能性が、1~2%は、あるからだ。
生きている限り、絶対に「ああ」という事は起きる。
会社に行けない、家から出られない、立ち上がれない、そういう事は誰でも起きる可能性がある。
自分だけの問題ならどれだけ楽か、それが子供や夫だと、なお更つらい。でも、やっぱりこれは最後は各々が答えを出さないといけない。だからそれに対して自分は何が出来るのかと一緒に考える。
これはまたゆっくり書くけど、そこには”腹をくくる””という作業が出てくる。
一緒にダメになるのではなく、どんなことも一緒にいい方向に持っていける考え方が出来る人になっておかないといけない。世の中のデータ並べて「ダメだ」と決めつけるのではなく、自分の経験を持って「ダメだ」と言える人にならないといけない。
その為に勉強をしておかないといけない。体と心を、丈夫に頑丈に作っておかないといけないんだ。さあ、私はもっともっと強い大人になるよ。