キラキラの為の、自然療法じゃないよ

私にとって自然療法は”キラキラアイテム”では、ない。自然の中で、自分が自然な状態で居るとラキラしちゃう事はあると思う。私のお手本は、可愛い農家のおばあちゃん。彼女たちを見たら分かる。化粧もしていないのに、しわだらけなのに笑顔が可愛い。しぐさや喋る事が可愛い。作ったものは、美味しく、写真に撮ればキラキラしている。

そしてなんでも与えようとしてくれる。自分の人生を、満足して歩んだ人にしか出せない余裕と、オーラだと思う。私の周りにも多いんだ。自分の道を、自分の意志で決めて進む人。年齢関係なく「先輩!すごいです!」と思ってしまう。きっとみんな良いシワで笑うおばあちゃんになるに違いない。

美しさの基準は人それぞれ。私の基準はコレなのだ。

こんにちは!香川県高松市マンツーマンアロマサロン・スクールAromatico~アロマティコ~高嶋です。今日はちょっと自然療法をキラキラ系のアイテムと一緒にしないで!と言う事を話したいと思います(笑)

自然療法の種類

以下はほんの一部ね

アロマテラピー
ハーブ
漢方
薬膳
ヨガ
ホメオパシー



と、色々あって、どれも「健康、未病」「整える」が目的。そして根っこは一緒。「自然でいる」「自分の心身と向き合う」。

自分の身体がどうなっているのか?を内観して、それを自分の好きなやり方で整える。ただ単純にそれだけ。

見てみて!!いいでしょ!の前に持つべきもの

今回この話題を取り上げたのは「綺麗な人が、自然療法の材料を綺麗に並べて、良さげに見える、それを自然療法ですよ」が先に立ってしまっている気がするから(笑)

教室に来てくださる方に、最初に無料説明会しているのはそのすり合わせをしたいからなんだ。

自然は本当にきれいだ。だから、映えてしまうのは仕方ない。だけどそれが先じゃない。

自然の中へ行き、感動したらそれを撮りたいと思う。残したいと思う。伝えたいと思う。こんな素晴らしい場所や過ごし方を見つけたよ!って。誰かが発信してくれた景色に情報を貰い、私も見に行く、そして確かに誰かに伝えたいと思う。

でも、一番に「ああ、涙が出るほど素晴らしい。」と、そこで感じたことを伝えたくなったという「そこで感動した!」心が、最初にないと伝わらないと思うんだ。その感動する心を持てる余裕は、当たり前に有るわけじゃない。ツラい時は、何を見ても灰色だ

アロマクラフトも、自然で、イメージがいい。ハーブや、色が可愛い。うんうん、可愛いんだよ、確かに。だから使っていても、並べていても癒される。だけど、それをいい香りだとか可愛いと感じる余裕は、当たり前に有るわけじゃない。ツラい時は、何を嗅いでもにおわない。食べても、砂の味しかしない。

自然のものは「使っていて本当に良いと思う。体が、心が、楽に過ごせるようになった」という感動が最初にないと伝わらないと思うんだ。特に仕事にしようとする場合は、どうやってこの目に見えない「感動」を伝えるか?が課題なんだ。

映える映像で集客できたとして、来られた方に本当の自然の感動を伝えられるか?だ。映像とコピー(文字)で期待して来てくださった方へ、きちんと伝えられる内容を持っているか?だ。それを持ったうえで、SNSで伝えるのは有りだと思う。

単純にインスタの「いいね」とかフォロワーを増やしたい目的でハーブや自然、アロマのアイテムを使うのは、それはそれでどうぞ!だ。アイテムとして本当に目を引く。私も「お!かわいい~」って目が行く。

だけど”自然療法”を知りたい場合「かわいいでしょ?」「すごいでしょ」が先に来ているメッセージは、私に響いてこない。

誘われても行きたいと思わない。それは自分は自然療法を可愛くなるため、を目的にしていないから。また、可愛いものを欲しいと思っていないから。健康的に暮らせそうかどうか、まだ自分の知らない自然の不思議がその中にあるかどうか?それしか響かない。

だから私のレッスンも、どの本に載っている事はサラッとはするけど、それよりも本に載っていない、皆が迷いそうなところや「自然療法の判断段は人それぞれ」と言われるところを伝えようとしている。可愛いとか映えるはオマケだ。植物のおかげで、可愛くなることはチョイチョイ起きるが。

どうしたら、そんな思考になるか

私がこういうメッキ(映え)より「芯」的な考えになったのは、色んな過去があるのだけど、ざっくり10年前から。(これはまたゆっくりと話すね)。

色々上手くいかなくなった挙句、キチガイのようにヒステリーを起こし、それが過ぎるとだんだん体が動けなくなってしまって、それを人のせいにしたり、誰かに助けてもらおうとばかりしていた経験から。

とうとう体が動けなくなった時、ただ倒れる事にしてみたの。正確に言えば「起き上がれない」かな。ちょっと動けても疲れたり、何かあれば悲しくなって、そんな時に、倒れたい時は倒れてみたの。→これおススメ。

台所に、リビングに、布団の上に。自分がそうであっても家族はみんな自分の予定や人生を淡々とこなしてくれていた。(いやさすがに台所に倒れたらびっくりするだろうから、台所は皆が居ない時に倒れてみた)みんなは「また寝ている」と思ったかもしれないけど、ちがうの、倒れていたのよ。

もちろん家族は家族で心配していたかもしれない。でも、みんな動いていてくれていた。

そうやってそのころの私は、出来る事だけやって、出来ない事は出来ないままに過ごしていた。途中、もし私が傷ついたライオンだったら、ハゲタカやハイエナに食われるんだろうな、としょうもない事を考えたり、動物は賢いな、ケガしている時は動かない事を知っているんだもんな、と、いろんな動物の事を考えたりしていた。ほんとしょうもな。

すると、寝ていたら、すごいの。お腹が空いてきて「ごはんが食べたい」となるだわ。それまで砂の味だったご飯が、うん、ちゃんと作れる、食べられる。そうして元気になってくると、次は動けるように。

そして、おかしかったのは周囲じゃなくて私だったと気付く。そうしたら早かったよ~そっからは、何もかもが早かった。ちなみに、身体は今より10キロほどやせていた。(体重だけ、あの頃に戻りたい。)

私が人間食べなくても死なない。食べたくない時は食べなくても良い。とにかく温かくして、静かに休め。と言うのは、自分の経験から言います。(良い塩、水分は取る)

倒れるに至るまでには、何年もバカな価値観で生きていて、もう、どうにもならないという最中は、臨床心理士さんのお世話になり、泣きそうな心でアロマテラピーの勉強をし、(いい意味で)心に刺さるアドバイスをしてくれる中医学の方のお世話になり、テニスは心優しき友人が「行きたい時に言ってくれたら迎えに行く」と言ってくれ、試合も出てくれるペアが居た。

また、夫は黙って見守ってくれ、しっかり働いてくれて、子供は自分の人生をちゃんと生きてくれていた。

だから私が「元気なうちは勉強しろ」「元気なら動け」など熱く語るのは、いつ、人は倒れる時が来るか分からないから。

倒れている人をみたら、無理やり起こそうとせず、自分で立てるまで待ち(見守り)、立った時に動ける環境を準備して整えておけさえすればいい。

自分はその為に、いつか大事な誰かの役に立つ日のために、自分を整える事だけする。

これを全人類にしておいて欲しいと本気で思っていて今の仕事をしているわけだ。

見かけだけの美しさなんて、一瞬で不細工になる。

え?って思うかもしれないけど、どんなに頑張って若さを保とうとしても、可愛く見せようとしても、「芯」のところで壊れてしまうと一瞬で不細工になる。すべてメッキ

全部をはがされても、譲れない価値観が「芯」。そこさえガシッと持っていれば何も怖くない。日々の化粧も、美容院も、服も、どれもメッキ。私にとってはメッキ行為は全て遊びだ。無くても生きていける。一番大事なものでは無い。

10年前、私は老婆?魔女?の様に不細工になった。笑えないという事は、こんなにも顔をたるませるのか・・・醜くなるのか!くらい、目も、頬も、口も全部下がる。鏡を見て「誰?」と怖くなった。

逆に、炎天下のテニスコート、汗で化粧が流れた後でも、やり切った時に笑える笑顔とはこんなに筋肉を持ち上げるのか…と思う。

”がはは”と笑える事は決して当たり前じゃない。また自然に笑みが浮かぶ状況も、当たり前じゃない。安心して寝床に付ける状況も、メッキ遊びよりもずっと自分をきれいにしてくれる。この状況を大事にしようと、私はこのために毎日生きている。

無理に笑わなくていい

だからこそ思うのだ、無理な笑顔なんて意味がないと思う。「無理やりでも笑え」という人もいるけど、「笑う門には福来るだよ」と言うけど、私は無理に笑わなくていいと思うし、そう伝えている。自分に嘘をつかなくていい、そう言いたいんだ。つまらない人間のつまらない話しに、付き合う必要はない。無駄な時間を過ごす必要は無い。

その時間を選んだのは自分なのだから自分の責任で次の付き合いは嘘をついてでも断ればいい。その愛想笑いの状況を続けるといつか病気になる。嫌いな人への愛想笑いを覚えると本当の笑顔を忘れる。

(接客とかは別ね、それは笑えだ。愛想笑いが多いイヤな仕事なら辞めてしまうのが正解。辞めるは進むとイコールだよ。)
笑えないという事は、心に何か起きている。それを無視しなくていい。何か起きたら一度倒れてみる。そして元気になったら動けばいい。

無理に笑う、愛想笑いをする、その癖を付けたら「しんどい」が分からなくなったり、本当の笑いとの違いに気付けなくなったりする。一部の相手に「しんどくないんやな」「思ったより元気やな」と、ツラさがちゃんと伝わらなくなったりする。(可能性が起きる)

笑うなと言っているのではない、嫌な時に笑う必要が無いと言っている。笑うのは大事だ。その笑顔を引き出した大元の出来事も大事。だからこそ自分は何で笑顔になれるのか?それがちゃんと自分でわかるまでは、無理に笑わなくてよろしい。大人は、それを待つ。そして、笑っている子が良い子で、笑わない子が良くない子・・・・みたいなルールを教え込まない事だ。笑わない子は自分に正直な子なのかもしれない

森の中の呼吸は、究極の美容法。

元気になって、ベランダで日に当たるとホッとする。動ける様になって、蒜山とか屋島の上とか歩いたら笑っている(ゲラゲラ笑いじゃないよ)。で、涙も出る。

秋なら葉っぱを踏む音を聞くとどこまでも歩ける。湧水の音を聞いていると、何時間でも居られる。そこで腹が立つ事は一つもない。考えてみれば森の中で、なんだかムカついてきた!って人は出会ったことはない

太陽の下でテニスをして、腹を立てる人はいない。汗をかいてご飯を食べて、お風呂に入れば眠くなる。くだらない会話にお腹がよじれるほど笑えるメンバーは、人の悪口で盛り上がる事は、まず無い。

結局のところ、どんなに高級クリームを塗ろうとも、心からの笑顔には勝てないと鏡を見るたびに思う。シミが一つなくなろうが、しわが減ろうが、その結果、肌が10歳若返る事は無い。それよりも10年後も同じ笑顔で笑っていたい。シワは増えていても良い。

若さを引き留めたところで、何かが起きたら一瞬で老婆になるんだ。あの時私はたぶん43歳くらい。でも、今より、これから迎える80歳の私より老婆で悪い魔女の顔だった。あれ以上の悪い顏には、きっともうならない。だから、シミが増えても、しわが増えても、今、実はあまり気にしていない(笑)

つまり、私が森に行くのは究極の美容法眉間のしわを取り、頭皮のコリを取り、肋骨をしなやかにし、心をきれいにする。湧いた水や海に手や足を付けて、+に帯電した体を中和する。

子供もそう。自然の中で遊びと学びを見つける。五感も使う。自然の中でルールは「自然のルール」。間違うと命に係わる。それは経験で教わるしかない。そして遊んで、疲れて、食べて眠る。

自然療法を知るとはそういうこと

自然は、毒も薬も持つ。だから自分なりの良い量を見つける為の学びをする。

その想いで、自然療法の学びの基礎を伝えています。基礎とは=すべての大事な「芯」の意味。

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